【京都】新島八重のゆかり女紅場址や新島旧邸をめぐってみた!
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丸太町、鴨川沿いに「女紅場址」
と書かれた石碑
女紅場とは
明治初期の女子の教育機関で
裁縫や料理、 英語や習字、算術、礼法などを教えるための施設のことです
新島八重が会津から京都にやってきて
襄と結婚するまで働いていたという場所でもあります
石碑には
「女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校 創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十 四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ 」
と書かれています
女紅場は明治5年
五摂家であった九条家の河原町別邸を利用して
日本最古の公立女学校として開設されたのです
石碑がたつすぐ横は鴨川
石碑には
「本邦高等学校之濫觴 女紅場址 従是 西九十三米 南九十米」
と書かれてあるので
この石碑から、西に93m南に90mの広さがあったということなのでしょうか?
鴨川沿いの木々も紅葉してきました
丸太町橋からみた石碑
横から、丸太町通からみた石碑
この女紅場は明治37年に
「京都府立京都第一高等女学校」となり
昭和23年に現在の男女共学の
「京都府立鴨沂(おおき)高等学校 」となりました
現在の鴨沂高校は女紅場があった場所から
少し北へ行った御所の東横にあります
実は私の母はこの鴨沂高校の出身なんですが
今年の大河の「八重の桜」で
鴨沂高校が八重の働いていた女紅場の全身だったとはじめて知った
歴史好きの私はびっくり ∑(`□´/)/ !!
ただ母はそういうことに興味なく
「へーそうなんや」というばかり
この重厚なお寺のような門がその
「鴨沂高等学校 」の校門
なんとも歴史を感じます(*'▽'*)
実はこの校門、 女紅場があった九条家の河原町別邸の表門を移築したもの
他にも茶室などが移築されたそうです
これらの歴史的建物が残る「鴨沂高校」
最近、老朽化や耐震化を理由に
全面的な建替えが決定されたとか
歴史深いこの高校も、現代の波にのみこまれてしまうのか‥‥
母はこのことを知ってるんだろうか?
今度実家に帰ったときに
ゆっくり鴨沂高校のことを聞いてみたいですね
さて女紅場址の石碑がある横にある洋館
ここは「旧京都中央電話局上分局」
鉄筋コンクリート造の一部3階建は
登録有形文化財として登録されているそうです
現在は
スーパーの「フレスコ」として使われています (゚0゚)ヘー!
さて女紅場跡から少し北へいったところに
「新島旧邸」
があります
新島襄と八重が暮らした洋館
予約しないと中の見学はできないそうです(≡д≡)
今見れば普通の洋館だけど
その当時はさぞかし浮きまくってたんちゃうやろか‥
ご近所関係は良好やったんやろか‥?
そんなことを考えてしまいます
リアルに新島襄と八重を感じれそうな「新島旧邸」
また今度予約して見にいこう
地図で見ると
位置関係はこんな感じ
「八重の桜」がタイムリーだけに
ああいう感じだったんだろうか‥などの想像力も広がり
なんとも感慨深いものがありました
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