【兵器のまち枚方】戦争の爪痕をめぐる①

小松製作所の甲斐田門まえ

甲斐田門を正面に見て、左の方角に進むと国道1号線に出ます

右の方角は牧野・樟葉方面
今回はこちらに向かいます

真っ直ぐに進むと右手に明らかに税金の無駄遣いだなとわかる外観【枚方中央図書館】があります。

このまま真っ直ぐ進み府道17号線を左に曲がると片埜神社へ行けます

ちょっと振り返ってみました。
ん、右側に何か見えます。

何かのモニュメントのようです

【旧陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所】の建屋の屋根部分をモニュメントにしたもだそうです。

【兵器の町といわれていた枚方】
1896年、今の
●御殿山南町
●禁野本町
辺りに禁野火薬庫は造られました。
1939年には禁野火薬庫と併設する形で
陸軍造兵廠大阪工廠(りくぐんぞうへいしょうおおさかこうしょう)枚方製造所を建造し国内でも屈指の砲弾・火薬製造工場が完成されます。
さらに規模を拡大し上記に加え
●中宮北町
●上野
100万㎡という広大な敷地に、3万人を越える人が、働いていたそうです。
ちょうど今の中宮団地、関西外国語大学や小松製作所の敷地に及んでいますが、
最終的には片鉾本町や交北1丁目まで買収し拡張する話まであったとあります。
(後に述べる2回目の爆発事故で断念しますが)
よく小松製作所の前身は【禁野火薬庫】だったと聞いていましたが、実はそういうことだったんですね。
■1度目の爆発
1909年8月20日
ダイナマイトの自然発火による爆発事故が発生。
被害は
●負傷 10人
●家屋の全半壊 約1495戸
■2度目の大爆発
1度目の爆発により近隣住民は再三にわたり反対運動を行いましたが
激化していく戦争により、聞き入れられませんでした。
そんなおり、住民が心配していた2度目の爆発
未曾有ともいえる大爆発がおきます。
1939年3月1日
砲弾解体中に、てん薬弾に引火し大爆発をおこし
その爆音は京阪一帯にとどろき2日間で
29回もの爆発があったといいます。
さらに砲弾の破片がおよそ2Km飛び散り、近隣の住宅は炎上
小学校(殿山第一)も焼失したそうです。
被害は
●死者94人
●負傷者602人
●家屋の全半壊821戸
●被災世帯4425世帯
戦争は全く関係のない人たちを不幸にし老人や子供、そして
青春を知らず死んでいく若者までも。
この枚方の禁野火薬庫の大爆発で沢山の人が亡くなりました。
もし明日戦争がおきれば
あなたや、あなたの愛する人が突然いなくなるかもしれない!
戦争を知らない私たちは二度と戦争を起こさないためにも
当時から残る爪痕や遺構から目をそむけず
教訓にしていかなくてはなりません。

対面にはこのようなモニュメントが

こちらも旧枚方製造所の建材をモニュメントにしたもの

モニュメントの並びにこのような木が

【被爆くすの木二世】
長崎に原爆が落とされ、その時生き抜いたくすの木の子供だそうです。

さらにその横の木は

【被爆アオギリ二世】
こちらの木は広島で被爆したアオギリの子供
こうした戦争の【負の遺産】は枚方にまだまだ残されています。
機会があればまた、記事にしてみようと思います。
ちなみに、戦時中の枚方を写した写真などは枚方中央図書館でご覧になれます。
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