京都の【耳塚】秀吉が残した負の遺産
京都の東山区にちょうど【豊国神社(ほうこくじんじゃ)】と【方広寺(ほうこうじ)】の目と鼻の先ほどに
丸く盛った土の上に五輪塔が見えてきます。

秀吉が日の国を統一し、次に行ったのが大陸侵略。
1592~ 98年にかけて朝鮮に出兵したいわゆる「文禄慶長の役」です。
本来、大陸侵略を行うつもりはなかったそうで、内政政策を活性させるため戦を行ったと聞いたことがあります。
本来、戦のおりには大将級の首を持ち帰り殊勲として褒美を貰うのが通例ですが、この朝鮮での戦に関しては
運搬が困難なため耳と鼻を削ぎ落とし
腐らないように塩漬けにして日本へ持ち帰ったとあります。
その数約2万!
塩漬けにされた耳や鼻は秀吉の命により供養をされるようになりました。
つまりそれが
耳塚
というわけです。
結局、朝鮮の激しい抵抗により大陸侵略は失敗に終わります。
しかしこの戦争で朝鮮人達の心に大きな傷跡を残すことになりました。
足軽から天下人へと華麗に昇りつめ、日本人の憧れのような存在という半面
己の政策のために、罪もない人々を殺める闇の一面もこの秀吉にもあったことは忘れてはいけません。
ところでここ耳塚は昔「鼻塚」と呼ばれていたそうで
儒学者である林羅山が
「鼻そぎでは野蛮だ」ということから
「鼻塚」⇒「耳塚」
となったそうです。
丸く盛った土の上に五輪塔が見えてきます。

秀吉が日の国を統一し、次に行ったのが大陸侵略。
1592~ 98年にかけて朝鮮に出兵したいわゆる「文禄慶長の役」です。
本来、大陸侵略を行うつもりはなかったそうで、内政政策を活性させるため戦を行ったと聞いたことがあります。
本来、戦のおりには大将級の首を持ち帰り殊勲として褒美を貰うのが通例ですが、この朝鮮での戦に関しては
運搬が困難なため耳と鼻を削ぎ落とし
腐らないように塩漬けにして日本へ持ち帰ったとあります。
その数約2万!
塩漬けにされた耳や鼻は秀吉の命により供養をされるようになりました。
つまりそれが
耳塚
というわけです。
結局、朝鮮の激しい抵抗により大陸侵略は失敗に終わります。
しかしこの戦争で朝鮮人達の心に大きな傷跡を残すことになりました。
足軽から天下人へと華麗に昇りつめ、日本人の憧れのような存在という半面
己の政策のために、罪もない人々を殺める闇の一面もこの秀吉にもあったことは忘れてはいけません。
ところでここ耳塚は昔「鼻塚」と呼ばれていたそうで
儒学者である林羅山が
「鼻そぎでは野蛮だ」ということから
「鼻塚」⇒「耳塚」
となったそうです。
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