【京都】東山にある新熊野神社に行ってきた!観阿弥と世阿弥親子ゆかりの聖地
『能楽って京都発祥じゃなかったんですね‥‥((照))』
てっきり新熊野神社が発祥だと思っていましたが
発祥は、奈良県といわれているようです。
ところで観阿弥&世阿弥親子をご存じでしょうか?
昔の猿楽(物まねが中心とした芝居)を、今に近い能楽へと大成させた親子です。
大和の国に大和猿楽という有名な座があり
●外山(とび)座
●坂戸(さかど)座
● 円満井(えんまんい)座
●結崎(ゆうざき)座
の四座(ブランド)。
父である観阿弥は結崎座の一員でした。
奈良興福寺や春日大社などの神事に出向き舞を奉納したり
近隣において演劇の活動をしていました。
あるとき観阿弥は自ら【観世一座】を立ち上げ、京都へ進出します。
1372年観世一座は京都伏見の醍醐で7日間興業(公演)を行い
9歳になる世阿弥も出演したそうです。
醍醐での公演は瞬く間に世間を賑わし、京都で観世座が有名になりました。
そこから何年か経ち、観世座は京都のこの新熊野神社において公演されることになり
かねてより噂を耳にしていた足利義満(17)も、その時鑑賞に来ていました。
義満は観阿弥の卓越した演技の素晴らしさに驚きましたが
共演する弱冠12歳になる世阿弥の妖艶なまでの演技に心魅せられ、義満の視線はいつしか彼だけを追っていました。
(ちょっと言い過ぎかもしれませんが(^_^;))
『ブラボッーーーーーーーーーーーーー!!!』
義満は彼を自分の手の内に置いておきたいと思い、観世座のパトロン(後援者)となることに。
その後、世阿弥は義満のもとで教養など身につけ、ライバルの座と切磋琢磨しながら苦難な人生を歩みましたが
日々の努力により猿楽の芸術性を高め、今日ある能楽までへと発展させました。
新熊野神社には「能」と書かれた石碑がおかれています
ところで、世阿弥が新たな能のジャンルとして
【夢幻能】という形式を完成させたのですが
その中身は、“あの世の住人”を題材とした内容が多いといいます。
現在の能楽でも世阿弥が作った作品が数多く上演されております。
もし、新熊野神社で義満との出会いがなければ、今の能楽はなかったかもしれませんね。
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● 円満井(えんまんい)座
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近隣において演劇の活動をしていました。
あるとき観阿弥は自ら【観世一座】を立ち上げ、京都へ進出します。
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9歳になる世阿弥も出演したそうです。
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そこから何年か経ち、観世座は京都のこの新熊野神社において公演されることになり
かねてより噂を耳にしていた足利義満(17)も、その時鑑賞に来ていました。
義満は観阿弥の卓越した演技の素晴らしさに驚きましたが
共演する弱冠12歳になる世阿弥の妖艶なまでの演技に心魅せられ、義満の視線はいつしか彼だけを追っていました。
(ちょっと言い過ぎかもしれませんが(^_^;))
『ブラボッーーーーーーーーーーーーー!!!』
義満は彼を自分の手の内に置いておきたいと思い、観世座のパトロン(後援者)となることに。
その後、世阿弥は義満のもとで教養など身につけ、ライバルの座と切磋琢磨しながら苦難な人生を歩みましたが
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【夢幻能】という形式を完成させたのですが
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現在の能楽でも世阿弥が作った作品が数多く上演されております。
もし、新熊野神社で義満との出会いがなければ、今の能楽はなかったかもしれませんね。
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