【京都東山】新熊野神社と後白河上皇との関係
京都東山にある「第一日赤病院」を右に見て真っ直ぐ進むと、突如現れる大きな樟(くすのき)。
東大路通りを覆い尽くさんというばかりの大きさです。
高さ約20メートル、周囲約6.5メートルもあるこの樹齢900年の木は
平安時代、熊野から持ってきた御神木。
後白河上皇が植えたといいます。
ちなみにこの御神木は【新熊野神社】境内の中にあり、間近で見ることができます(*^^*)
御神木の領域に入ると、急に空気がひんやりするのがわかります。
この神社は
【今熊野神社】または【新熊野神社】とも書き、どちらも“いまくまの”と呼びますが
【新】では【いま】とは読めないですよね(笑)
熊野の上に付く【新】【今】は
紀伊(和歌山)熊野神社を古いのに対し
京都の熊野神社は新しいという考えから【新】とついたそうです。
すなわち【新】とは現在を表す【今(いま)】ともとれることから、名前が転化したのではないでしょうか?
ちなみに正式名は【新熊野神社】の方だそうです。
平安時代、“ちまた”では紀伊(和歌山)にある熊野神社へお詣りすることが流行っており
熊野本宮大社
熊野速玉大社
熊野那智大社
の熊野三山を参拝するもので
いわゆる【熊野詣(くまのもうで)】と呼ばれていました。
実際、後白河上皇も生涯にわたり34回も行っております。
私はまだ行ったことがありませんが(^_^;)
現代では自動車や電車といった、とても便利な交通手段があっても、
そう何回もお詣りはしませんよね?
でも上皇は
不便きわまりないにもかかわらず、熊野詣に出掛けました。
狂信的なまでの信仰は次第にエスカレートし、最終的には
『俺んちに熊野神社を造っちゃわね?』
となったわけです。
さっそく後白河上皇は、
平清盛に命じ自宅である【法住寺殿】内の敷地に
熊野から運んだ土砂や木材を用いて社殿や社域を造り上げ
熊野の神様を勧情(分霊)させ法住寺殿(自分家)の鎮守社としたわけです。
さらに
極めつけは【那智の浜】の青白とした小石を敷いて霊地熊野を再現したそうで、こだわり方も半端ではなかったということでしょうか?
新熊野神社の場所はこちら↓
東山区今熊野椥(ナギ)ノ森町 42
(※↑Googleマップが開きます)
■関連記事
世阿弥と足利義光
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高さ約20メートル、周囲約6.5メートルもあるこの樹齢900年の木は
平安時代、熊野から持ってきた御神木。
後白河上皇が植えたといいます。
ちなみにこの御神木は【新熊野神社】境内の中にあり、間近で見ることができます(*^^*)
御神木の領域に入ると、急に空気がひんやりするのがわかります。
この神社は
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【新】では【いま】とは読めないですよね(笑)
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紀伊(和歌山)熊野神社を古いのに対し
京都の熊野神社は新しいという考えから【新】とついたそうです。
すなわち【新】とは現在を表す【今(いま)】ともとれることから、名前が転化したのではないでしょうか?
ちなみに正式名は【新熊野神社】の方だそうです。
平安時代、“ちまた”では紀伊(和歌山)にある熊野神社へお詣りすることが流行っており
熊野本宮大社
熊野速玉大社
熊野那智大社
の熊野三山を参拝するもので
いわゆる【熊野詣(くまのもうで)】と呼ばれていました。
実際、後白河上皇も生涯にわたり34回も行っております。
私はまだ行ったことがありませんが(^_^;)
現代では自動車や電車といった、とても便利な交通手段があっても、
そう何回もお詣りはしませんよね?
でも上皇は
不便きわまりないにもかかわらず、熊野詣に出掛けました。
狂信的なまでの信仰は次第にエスカレートし、最終的には
『俺んちに熊野神社を造っちゃわね?』
となったわけです。
さっそく後白河上皇は、
平清盛に命じ自宅である【法住寺殿】内の敷地に
熊野から運んだ土砂や木材を用いて社殿や社域を造り上げ
熊野の神様を勧情(分霊)させ法住寺殿(自分家)の鎮守社としたわけです。
さらに
極めつけは【那智の浜】の青白とした小石を敷いて霊地熊野を再現したそうで、こだわり方も半端ではなかったということでしょうか?
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東山区今熊野椥(ナギ)ノ森町 42
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